転移について

看護研修 「転移について」
       心理 太田 裕一

1) 転移とは?
転移とはユダヤ人の精神科医フロイトが主に神経症者の治療のために考え出した精神分析という治療法の中心になる概念です。その定義は「幼児期両親に対して体験していた感情や思考パターンが現在の対人関係で(特に治療者に対して)繰り返されること」となります。転移という言葉を聞くと私たちはまず「ガンの転移」を思い出すでしょう。あの言葉の意味は「ガンが別のところに同じ形で現れること」を意味していますが、精神分析においては幼児期に形成された対人パターンが大人になってから現れることをこれにたとえているわけです。
 フロイトは特に転移の「患者さんから治療者が歪んで見えること」を強調しました。
 現実の性格はむしろ温厚でやさしいようなスタッフに対して、患者さんが「何てあの人は冷たいんだろう」といったりする場合がこれに当たります。患者さんはそのスタッフのどこかが冷たかった母親を思い浮かばせるところがあり、母親のイメージをそのスタッフに重ねているのかもしれないということです。
 精神分析という治療法は基本的に週5回、患者さんが寝椅子に横になって頭に浮かぶことを隠さずに口にするという自由連想法に基づいています。精神分析家はなるべく、中立的に患者さんに接し、患者さんの連想を解釈するという方法で治療をすすめます。フロイトはそうした連想の中に幼児期に両親との間で交わされた対人交流のパターンが繰り返されるということに気づいたのです。
現実の治療者がどんな人であるかに関わらず、患者さんの連想の中では治療者は父親や母親であるかのように扱われるというわけです。フロイト神経症の症状の原因となるのはこうした無意識の中に抑圧された願望や、空想であると考えました。そこで、週5回、横になって頭に浮かんだことをすべて口にするというような退行を引き起こしやすい状況を作りだし、さらに治療者に関する情報もなるべく与えないようにして、転移が起こりやすい状況を作り出します。その中で人工的に幼児期の状況が再現され、転移状況に対する患者さんの気づきを治療の手段にしようとしたのでした。
 フロイトによれば転移は患者さんが現実に向き合うことを避けるために、こころの中にあるイメージを重視するという無意識的な防衛メカニズムのひとつと言うことになります。
 ここで忘れてはならないのは防衛は基本的には精神的な健康を保つために必要なものだということです。幼児期の外傷体験に対してその時は効果を発揮した手段なのですが、成長しても特定の防衛しか使えないと適応が悪くなるということです。

ここでひとつ転移の例を挙げておきましょう。対人恐怖症のAさんの親は神経質でAさんに冷たく、Aさんは父親を恐がっていました。母はAさんには優しく 要求は何でもかなえてくれました。
 Aさんの発病のきっかけは職場で上司が恐くなり、同時に同僚の女性が好きになり、それで仕事が続かなくなってしまうことでした。
心理面接の中でも治療者がAさんの要求を受け入れれば「優しい母親」になり、要求を受け入れなければ「恐い父親」であるかのようにふるまうのでした。

2)歴史的な背景
 ここでフロイトが転移という概念を導くきっかけになった症例について振り返ってみましょう。フロイトは同僚のブロイアーと1895年に「ヒステリー研究」を共同出版していますが、その中で次のような症例を取り上げ、ヒステリー患者が治療者に向ける強い感情に注目しました。
 アンナ・Oは父の死をきっかけに吐き気、咳、視覚・言語障害などの多様なヒステリー症状を訴えるようになった21才の女性です。
 ブロイアーは催眠によって治療を行います。治療を続けるうちにアンナはブロイアーと話すだけで症状が消失するのですが、アンナはブロイアーの子どもを身ごもるという妊娠空想を抱くようになりました。
 ブロイアーは自分がそのような期待を起こさせるようなことをしたのだろうかと心配し、治療を放棄しました。
 フロイトの考えによれば
  a)アンナとブロイアーの関係は、アンナとアンナの父の関係の反復である。
  b)転移を通じてアンナにはブロイアーが「愛情を与えてくれる父親」のよ
   うに見えている。
  c)アンナがこのような転移を形成したのは、父親の喪失という外傷体験か
   ら身を守るためである。
 ということになります。
 アンナが一時的に回復した状況を精神分析では転移性の治癒と呼びます。ブロイラーはアンナが求めているような父親イメージを現実に与えることによって症状は一時的に改善します。しかし、そのような現実的イメージを与え続けることは治療者に大きな負担を与えることになります。転移性の治癒は治癒への第一歩ではあるのですが、下手をすると治療者が巻き込まれて、治療から逃げ出してしまうということにもなりかねません。

3)精神病院で実際に現れる転移
 精神病院という場で看護は女性が多いことと身体的なケアも行うことから母親イメージが、権威を担うことと男性が多いことから医師に父親イメージが向けられやすいでしょう。これらをそれぞれ母親転移、父親転移と呼ぶことがあります。
 父親転移では信頼・依存・競争・恐れといったものがテーマになり、母親転移では 干渉・保護・愛情・甘えといったものがテーマになりやすいです。
 転移は治療者が患者さんの求めている役に乗れば乗るほど強まり、患者さんは退行しやすくなります。傷ついたり不安が高まっている患者さんに対しては父親転移、母親転移を形成させて 依存させたり、保護したりする必要があります。
 また転移されている感情の内容で、陽性転移、陰性転移と分類する場合もあります。
 必ずしも陽性がよいもので、陰性が悪いものというわけではありません。分裂病の患者さんでは転移は陽性か陰性か極端なものになりやすいようです。
 治療の初期には患者さんと治療者のよい関係(陽性転移)が必要なわけですが、この転移に治療者が固執すると、(いい治療者イメージにこだわると)、患者さんの求めてくるイメージから抜け出せず苦しむことになります。
 フロイトは後にこんな風に言っています。「ブロイアーは転移過程が個人的な現象ではないことを把握しなかった」
 確かに患者さんから、激しい怒りや恐れをぶつけられるということは、治療者にとってどう対応していいかとまどう状況です。治療者が患者の怒りにそのまま怒りで反応するなら、患者にとっては幼児期の外傷体験の繰り返しになってしまうでしょう。これを避けるにはどうしたらよいのでしょうか?
 まずは患者さんの激しい感情のすべてが自分に向けられているのではないと考え、距離をおいてみる、入院歴を振り返ってみる、カンファレンスで話し合う、などの手段が考えられます。
 治療者が拒否されたことだけにとらわれているとつらくなってしまいます。治療者が拒否されたことは、その時だけ起こったことでなく、患者さんが子どもの頃から繰り返してきた対人交流の典型的なパターンであると考えると患者さんを理解する上での手がかりになる場合もあります。

転移という考えは患者さんの知覚の歪みを問題にしますが、すべてを患者さんの転移による歪みと片づけてしまうわけにはいきません。すべては患者さんと治療者の間に生じていることであり、治療者の側の行動や認知のパターンも対人関係で起こっていることに当然影響を与えていると考えられます。
このような治療者が自らの生育歴の中で身につけたものを治療関係の中に持ち込むこと、すなわち治療者の側の転移をフロイトは「逆転移」と呼びました。
前述のアンナ・Oの症例で言えば、治療者であるブロイアーは1日2回長時間の往診に応じるなど、実際にブロイアーは「娘に愛情を注ぐ父親役」を演じてしまっていた訳です。ブロイアーの生育歴については詳しくは知られていませんが、医療関係という職業に就くこと自体が人の役に立ちたいという治療者自身の願いに基づいているものと考えられます。もしかすると、治療者自身が患者さんに必要とされることが自分のために必要であったのかもしれません。もちろん「患者さんのためになりたい」という気持は治療の中で最も大切なものでしょう。しかしプロとして患者さんに関わる場合はその気持が本当に患者さんのためになるのかということのチェックが必要になってきます。
 またブロイアーは若く知的で美しいアンナに性的な魅力を感じていたのかもしれません。治療者にとってこれは治療者のモラルに反することですが、こうした気持を認められず治療を断念してしまうことは、アンナが父の死を認められずに症状にしてし
まうのと同じ構造になってしまいます。
 フロイト逆転移をなるべくなくし治療者が透明なスクリーンのように患者さんの心の中を映し出すことが望ましいと考え、治療者自身が精神分析を受ける教育分析の必要を強調しました。
 しかし、後の精神分析家たちの中にはこの考えに異論を挟んでいる人達もいます。特に重傷例を扱う場合、治療者の心がかき乱されるということはよくあることです。
 そういう時に、治療者の中に引き起こされる生々しい感情があってはいけないものになってしまうことは、治療者自身がそうした感情を押し殺してしまう危険性があります。
 最近の考えでは、逆転移はなくそうとするよりも、むしろ有効に活用できるのではないかという考えが主流のようです。例えば治療者自身が患者さんに強い怒りや、恐怖を感じる時、それは患者さん自身が感じている生々しい気持の揺れを理解する手がかりになるかもしれません。

4)参考文献
 「精神分析」 土居 健郎       講談社学術文庫
 「フロイト」 小此木 啓吾       NHKブックス
 「フロイト著作集7 ヒステリー研究」 人文書院