盗まれた手紙についてのゼミナール

「盗まれた手紙 The Purloined Letter」に関するゼミナール (1955)

 「デュパンの仕事は精神分析と同じ」(ポアン叢書の「エクリ」序文より)
  purloin = pro (前に) + loin (遠く)
 「回り道をさせられた手紙」
 内容の明かされない「盗まれた手紙」=シニフィアン(意味するもの)の比喩。

第1のまなざし     王  警察
 何も見ないまなざし
第2のまなざし    女王  大臣
 手紙が隠されていると思い込むまなざし
第3のまなざし    大臣  デュパン
 隠されるべきものがむきだしになっているのを見るまなざし

 手紙は持ち得ないファロスの代替物として王妃に所属していたが、大臣は王のまなざしを利用し、王妃を去勢し手紙をかすめ取る。
 しかし探偵デュパンによって、大臣は去勢され、手紙は正当な所有者たる王妃の元へ戻される。
 大臣は自分が手紙を盗んだのと同じやり方で、デュパンに手紙を盗まれてしまう。(大臣の反復強迫
 大臣は王妃の役割を装わなければならない。(大臣が女性の筆跡をまね自分当ての手紙を書いたことに注意)
 手紙の隠された位置に関するファリックな解釈。
 「手紙が分割できない」という性質はファリックなものである。
 「手紙がいつも送り先に届いている」ということは、メッセージの自己自身との同一化の可能性を確認している
 私達の研究は、「反復強迫の原理は『シニフィアンの連鎖』による固執(insistance 内−在)と私達が名付けたもの中にある」という点にまで達しました。
 固執(内−在)という考え自体、私達は「外−在 ex-istance」(すなわち中心をはずれた場所)と相関的な存在として引き出したものです。フロイトの発見を深刻に受けとめるつもりなら、この中心をはずれた場所にこそ私達は無意識の主体を置かねばなりません。
 精神分析によって開始された試みによって初めて、イメージ界のどのような抜け道を通って、シニフィアンの連鎖のような象徴界への入り口が、人間の組織の最も奥深い部分にまで発揮されるのかを知ることができるのです。
 このセミナーの目的は以下のことを主張することです。「イメージの反射は、私達の体験の本質的な部分を現わすのとはほど遠く、一貫性のないものしか伝えない。ただしイメージの反射を結び付け、方向付けている象徴の連鎖には関連するかもしれない」
 確かに私達は、シニフィアンの連鎖を進ませるもう一方の象徴の偏りの中にイメージの浸透が生じることの重要さを知っています。
 しかし私達は、「排除(Verwerfung)、抑圧、否定などの主体にとって決定的な精神分析的な効果を支配するのは、このシニフィアンの連鎖に固有の法則なのだ」、ということを提起し、そのような効果はシニフィアンの置換に非常に忠実に従うので、イメージの諸要素はその慣性に逆らって、象徴界では影や輝きにしかみえないと言うことをふさわしい強調記号で強調しておきましょう。
 そういうふうに強調したとしても、諸現象の一般的な形式を抽出しているとしかみなさんの目にうつらないとしたら、無駄というものでしょう。
 私達の経験の中でそのような一般的な形式が持つ特徴は、みなさんにとっては本質的なものであり、その本質からもともとの混合物をひきだそうとすれば、巧妙なやり方が必要とされるのです。 これが、私達が研究しているフロイトの思想から明らかになる真理を、今日みなさんに、ある小説の中で主体がシニフィアンの道筋から受ける主要な決定行為を示しながら説明しようする理由です。その真理とはすなわち「主体にとって構成的なのは、象徴的秩序である」ということです。
 小説の存在そのものを可能にしているのは、この真理だということには注目しておきましょう。
 従って寓話は、その一貫性を証明することを覚悟すれば、他の物語と同様に真実の解明にふさわしいのです。
 この制限を除けば、人が寓話がいいかげんなものだと信じれば信じるほど、純粋に象徴の必要性が明らかになるという利点さえ持っています。
 そういうわけで、これ以上この問題を追求するのはやめて、最近私達が利益を引き出した、数あての遊びに関する対話が挿入されている話から、例をあげてみたわけです。
 たぶん、この話がすでにあの遊戯において確証を見いだした一連の研究を実行するのに都合がよいと明らかになったのは偶然ではないのでしょう。
 あなたがたはもう御存じでしょうが、ボードレールが「盗まれた手紙」という題名で翻訳した話が重要なのです。
 一目見れば、ドラマとその語り、語りの状況を区別することができるでしょう。

 この二つの行為(=大臣の行為とデュパンの行為)が似ていることを強調する必要があるでしょうか?
 それは必要なのです。なぜなら私達が見たこの類似は、違いを対照させるという目的のためだけに選ばれた特徴を単純に組み合わせてできているのではないからです。
 結果として何らかの真実が現れてくるためには、このような類似した特徴を、他の特徴を犠牲にして取り上げても十分とはいえないでしょう。
 私達が指摘したいのは、二つの行為の原因となる相互主観性と、それによってこの相互主観性が、二つの行為を構造化する3つの項なのです。
 これら3つの項の特権は、
 もしこの醜悪な大臣をつるしてみることが許されるとしたら、彼がだまされることになったのは、彼が張本人である autruicherie のためなのであって、彼の愚かさのためではありません。
 隠す人の役を演じるために大臣が装わなければならないのは王妃の役であり、隠すという行為に都合がよい、女と影の性質なのです。
 シニフィアンは唯一の存在の単位である。なぜならシニフィアンはその本性からして、不在の対象でしかなのだから。それゆえ私達は、シニフィアン(盗まれた手紙)については、他の対象のように、それはどこかにあるか、あるいは、ないかのどちらかでなければならないとはいうことができないのであり、そうではなくて、シニフィアンは、対象とは違って、それが存在するところ、あるいはそれが行くところがどこであれ、そこにあるようになり、かつ、そこにないようになるとしか言うことができないのである。

精神分析の経験において明らかにされる「私」の機能の形成としての鏡像段階(試訳)


 私が13年前の前回の発表で導入した鏡像段階の概念は、その時以来フランスの精神分析グループの実践においては、多少なりとも確立されたものとなりました。
 しかしながら私は、鏡像段階は特に今日精神分析で経験するような「私」というものの形成に光をあててくれるために、皆さんの注意を向ける価値があると思います。 鏡像段階は私たちを、コギトから直接生じているどのような哲学とも対立させる経験です。
 この概念が比較心理学の事実によって示される、人間の行動の特徴から生まれたということを思いだされる方もいることでしょう。
 子どもには、たとえどんなに短くても、道具を扱う賢さでチンパンジーに負ける時期があるのですが、その時期でさえ鏡に映った自分の姿がわかるのです。
 鏡の中に自分の姿を認めることは、ケーラーが状況から何かを知覚しないことを表し、知的な行為の本質的な段階とみなしている「あー体験」の啓蒙的な模倣の中にも示されています。
 この行為に猿は疲れきってしまうのですが、子どもはいったんその像をマスターし、ほんとうは何もないということがわかってしまうと、すぐに一連のしぐさを返してくるのです。そのしぐさの中で子どもは想像されたイメージの中の動きと、鏡にうつしだされる環境の間の関係や、この虚像のコンプレックスと、それが複製する現実・・・自分自身の体、自分の回りの人や物・・・との関係を、遊びの中で経験するのです。
 ボールドウィンの研究以来、私たちはこのできごとが生後6カ月から生じることを知っています。このようなことが重なってきて、私は鏡の前の幼児の驚くべき光景について考えるようになりました。
 まだ歩くことも、立つことすらもできず、大人や(フランス語でトロット・ア・ベベというような)道具にしっかり支えられながら、子どもは