物語としてのケア/野口裕二

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 あらゆる専門知を用いない「無知の姿勢」は、自らの言説のなかに「権力」を内在させないようにするための究極の方法といえるかもしれない。 p.140
 はっきりいってそれは違う。どんな方法をとろうが、我々が権力といったものから逃れられると思ったら大間違いだ。少なくとも危険な存在として権力と共存すること。そしてその悪影響をなるべく少なくしようとすること。それ以外に権力と対峙する方法はない。

 セラピストは新しいナラティヴの誕生を見守り応援はするが、その中身は問わない。p.142
 ほんとうにそんなことが可能なのだろうか。自分が殺した子どもたちが夢の中で自分に感謝している、そんなナラティヴを語る死刑囚もいる。確かに過度の医療化には違和感がある。では近親姦や、児童性愛も社会的に構成されたものなのか?
 部分的には、イエスとこたえてもいいかもしれない。でもセラピストとして、とてもそんな立場には立てそうもない。

 しかし、そうした表面的な類似性にもかかわらず、本質主義の立場に立つか、構成主義の立場に立つかで、その後の展開は大きく変わってくる。 p.156
 だから、本質主義構成主義が二者択一だなんて物語は捨ててしまおう。その矛盾を抱えて生きたほうがずっとましだと思う。

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ
物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ野口 裕二

医学書院 2002-06
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