ラカン派ではタブーの事例の生のやりとりを記載した若手の分析家による治療論。アマゾンのレビューとかみるとやっぱりというようなカルト精神分析的書き込みがありますが、それでもあえてこのテーマに挑戦されたのは偉いと思います。とはいえ筆者の事例は10頁に満たない短い記述があるだけで、あとはラカン的病理学の話が大半でそっちを書いている方が生き生きとされているようですね。やっぱり症例を理解するために理論があるというより理論の実例として症例が添えられているという感じですね。
それに筆者の事例なんですが、
ここら辺からして全くよくわかんなかったです。別に沈黙していたって陽性転移は生じるだろうし、分析家が沈黙していたって同一化は生じるでしょう。以前の治療者のことがでると黙る分析家って、分析家の方がエディプス葛藤強すぎるようにしか思えないです。
治療者は「その人用の自分になる」とDが述べたことや幼児退行という語が他者に起源を持っていること、および家庭教師Pや医師Qへの依存が認められたことから、今後起こりうる無意識的な陽性転移を避け、治療者のディスクールが同一化の対象にならないように、一度の面接に一、二回ほどの介入しか行わず、とりわけ、家庭教師P、医師Q、医師Rが話題になったときは沈黙で応えるようにした。(p.112)
ラカン派外の症例としてオグデンとレーニックと、数少ないラカン派の事例としてマノーニとドルトの事例が対比されいてるんだけど、どうしてもラカン派の解釈って古くさいエディプス解釈っていう感じがしちゃって残念です。
いや、それよりも著者が徳島大学の職員相談室助教として職員にどんな相談をしているかが気になります。ラカン派と職員相談を両立させるってかなり大変かと思うのですが・・・