Life History

 父親は牧師。

1875.7.26 誕生。
1900.12 ブルクヘリツリ病院で働き始める。
1901-05 ブロイラーの助手を勤める。
1902.4-7 オットー・グロース、ブルクヘリツリに1回目の入院。
1902-03 ジャネの冬学期の講義を聴講。
1903 エマと結婚、夫妻は病院内に住む。博士論文「いわゆるオカルト現象の心理と病理」
1904 ユング上級医師、チューリヒ大学の私講師となる。
1904.08.17-1905.6 シュピールライン、ブルクヘリツリ病院に入院。退院後チューリヒ大学医学部に入学。
1906 「言語連想法」出版、フロイトに一部を送る。
1906 ユングが「太陽ペニス男」症例を観察したとする年。
1907 エルセ・フォン・リヒトフォーフェン、オットー・グロースの子を産む。
1907.2.27 ウィーンでフロイトとの出会い。
1908.5-6 グロス、ブルクヘリツリに2度目の入院。ユングが主治医となる。
1909 ホーネガー、ブルクヘリツリに無給医師として勤務。
1909 トニー・ヴォルフ、ユングの患者となる。
1909.3. 7 ユング、ブルクヘリツリ病院を辞職。キュナハストの新宅に引っ越す。
1909.5. 7 フロイトへの手紙でシュピールラインについて言及。
1909.5.25 ウィーンでフロイトポルターガイスト事件。
1909.8.20 ブレーメンでのフロイトの失神事件。
1909.8- 9 フロイトユングフェレンツィの訪米。
1910 ユング二度目の訪米。
1910.3.30-31 ニュルンベルグの国際精神分析学会。ホーネガー「太陽ペニス男」症例を発表。ユング、国際精神分析学会の初代会長および「年報」の編集長に選出される(訪米のため大会は欠席)。
1911. 3.28 ホーネガー自殺。女性患者と性的関係を持ち、ユングの秘書であった婚約者の Helene Widmer と破談となった後の出来事。
1911 シュピールライン博士論文を提出。
1911.11 ヘレーネ・プライスヴェルク肺炎で死去。
1912 「リビドーの変容と象徴」出版。
1912 フロイトの2度目の失神。
1913 ミュンヘン国際精神分析大会
1913 フロイトとの決裂。
1913 チューリヒ大学の私講師を辞任。
1914 国歳精神分析学会の会長を辞任。
1914 「赤の書」執筆を開始。
1921 「タイプ論」出版。
1928 一般医学精神療法学会の会員となる。
1930 一般医学精神療法学会の副会長となる。
1933 一般医学精神療法学会の会長となる。(-1939 1940まで名誉会長)
1937 一般医学精神療法学会が国際一般医学精神療法学会と改名される。
1952 ユング、「リビドーの変容と象徴」の改訂にあたってホーネッガーの名前を削る。
1955 エマ死去。
1961.6.6 死去。