表題には恩師、とあるけれど寺山修司と中野トクに直接の師弟関係はない。寺山が通っていた中学が統合されてできた中学に赴任してきた文学好きの教師、中野トクに中学時代の恩師が引き合わせたらしい。
高校時代からの寺山修司がこの中野トクにあててかいた直筆のハガキ、手紙が収められている。
内容を読む限りは恩師というよりは「文学上の母親」であり、パトロンだろう。実際、お金、色や形まで指定されたセーター、ジャンパーなどの無心がくりかえし送られている。離婚し子どもを抱えていた中野はそれでもかなりの額を寺山に送金していた。
このような甘えにも彼なりの背景があり、早稲田大学に入学し、気鋭の詩人として売り出したものの、ネフローゼで入退院を繰り返し、死の淵をさまよっていた寺山は、夭折の俳人と知られることになっていたとしても不思議はなかった。実際、編集社であった中井英夫も「われに五月を」が遺稿集になることを想定していたかもしれないと著者は書いている。中城ふみ子が「乳房喪失」出版直後に亡くなっていたことを考えると、まさに中井英夫的運命の符合に危うくなりかけていた訳だ。そんな病床の寺山の状況が手紙の中によく表れている。
教育学部の同窓生だった山田太一や、寺山の詩劇の演出をてがけた河野典生、病床を見舞う谷川俊太郎との交流などもおもしろかった。
今だったら絶対「中二病」と呼ばれるだろう過剰な自意識、ナルシズム、母性への過剰な甘えが、ネットで大量複製されることもなく、ささやかなアナログな形で保存されていたこの幸福な時代。
寺山が手紙に添えたイラストも愛らしい。
寺山修司 青春書簡―恩師・中野トクへの75通 | |
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