生涯

西暦 年齢  
1873 0 7月7日、ハンガリーの Miskolc にてポーランドユダヤ人として出生。父 Bernat は出版業社兼本屋で革命詩人の本を出版していた。12人同胞の8番目。
1888 15 父親の死。
1897 24 ウィーン大学を卒業。ブダペシュトの聖ロック病院の売春婦のための健康サービス部門に勤務。
1900 27 聖エリザベス慈善病院に勤務。
1804 31 後に妻となる Gizela Palos と知り合う。ギゼラは2人の娘、Magda と Elma がいて、Magda はフェレンツィの弟の妻となる。
1906 33 ブダペシュト医学協会で同性愛を擁護。
1907 34 チューリヒのブルクヘルツリ・クリニックを訪れ、ユングと出会う。
1908 35 「男性の早漏が女性に与える影響」
フロイトに手紙を書き、文通開始。(生涯で1200通にわたる)(Feb)
ギゼラの分析を開始。
ブダペシュト医学協会で精神分析に関する講演を行う。
1909 36 フロイトユングとともに訪米
1910 37 パレルモ事件。フェレンツィフロイトシュレーバー症例の口述を拒否。
1911 38 ギゼラの娘、エルマの分析を開始。エルマはボーイ・フレンドの自殺をきっかけに抑鬱状態になる。フェレンツィはエルマに恋するようになり、エルマの分析をフロイトに依頼する。
1912 39 フロイトのエルマの分析が終了。エルマの分析を再開し、終結させる。
1913 40 ハンガリー精神分析協会を創設。(19 May) メンバーは Sandor Rado を含む5人。
「現実感の発達の諸段階」
「ちいさなおんどり」(5才のこどもの恐怖症の症例)
1914 41 メラニー・クライン、アーネスト・ジョーンズを教育分析。
1回目のフロイトからの教育分析。第1次大戦に召集され中断。(Oct) Papa にてハンガリー騎兵隊の医師として働く。
1915 42 Geza Roheim を分析。(-1916)
1916 43 ブダペシュトに異動。 2回目のフロイトからの訓練分析 (14 Jun-5 Jul) 3週間、1日2セッション。

  • 3回目のフロイトからの訓練分析 (26 Nov-9 Oct)

1918 45 国際精神分析連盟の会長に選出される。
1919 46 ギゼラとの結婚。同日ギゼラの前夫は心臓発作で亡くなる。
ブダペシュト大学で世界初の精神分析学教室の教授に任命される。
「ヒステリー症例の分析における技法上の困難」
1920 47 第6回国際精神分析学会(ハーグ)で「積極療法」の発表。
1924 51 「Thalassa(海) 性器性理論」
精神分析の発展」(O.Rank との共著)。
「性器論の試み」 生命分析。
バリントへの教育分析。
1926-27 アメリカに半年滞在。
1928 55 John Rickman への教育分析。
1929  56   バーデン・バーデンにあるグロデックのサナトリウムを訪問。
1931 58 フロイト「患者へのキス問題」についての手紙をフェレンツィに送る。
1932 59 「臨床日記」の執筆開始。患者エリザベス・セヴァーンとの間での相互分析実験始める。フロイトの反対にもかかわらず、ヴィースバーデンでの精神分析学会で「子どもと大人達の間に起こる言語の混乱」を発表。
1933 59 「子どもと大人達との間に起こる言葉の混乱」
悪性貧血のため死去。享年59才。(May)