Overview
「新世紀エヴァンゲリオン」はガイナックス制作、庵野秀明監督によるアニメーション作品です。
さまざまな外傷体験を抱えた登場人物と謎めいたストーリー展開、そして物語の完結を放棄したようなTV版の最終回、そして映画2作による完結編と、熱狂的な人気を誇りました。
ここでは登場人物の性格分析に迫ってみたいと思います。
使徒については、フロイトの二重本能論をまず連想します。生のエネルギー、リビドーをエヴァが表すなら、死の本能、攻撃性、破壊衝動を使徒が表すわけです。死の本能を仮定する理論家は、必ずそれがどのように和らげられるかというプロセスについても理論を構築しなければなりません。クラインであれば、それは攻撃を含みこんで(コンテインして)くれた母親に対する感謝の気持ちです。自我心理学者達は、中和化(ハルトマン)、対象恒常性の確立(マーラー)と呼んでいます。この物語では、生のエネルギーが、死のエネルギーに汚染されると言う点が特徴的でしょう。精神汚染とはこのことを意味するものと思われます。
碇シンジ
父との対決
「逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ」というセリフからわかるように、シンジの問題は挑戦−失敗−回避の反復といえます。
14才になってシンジはエヴァ初号機に乗るべく第3新東京市に呼び出されます。同時に第3使徒が第3新東京市を襲撃します。これを出迎えるのがミサトであり、幻のように現れるレイの姿です。ここで連想するのは潜在期の終わり、性の対象としての異性との再会です。フロイトの性欲の二層説によれば、幼児性欲と成人の性欲という二層が潜在期をはさんで存在するわけです。
父ゲンドウとの再会のシーンも象徴的です。上から見下ろすゲンドウと見上げるシンジ。シンジは最初エヴァに乗ることを拒否しますが、傷ついたレイを前にしてエヴァに乗ることを決意します。
なぜシンジはレイを見て、エヴァに乗る決意をしたのでしょうか。
後にシンジの母親ユイを巡る外傷体験が明らかになると、この場面の意味ももっとはっきりしてくるのですが、この場ではここまでで得られる情報から考えてみたいと思います。
エヴァを操縦するという決意を父に告げることは、父ゲンドウとの同一化が求められています。しかしシンジは素直に父に同一化できません。ゲンドウは任務をこなさなければ、シンジはここにいる意味がないといっています。かつてシンジがそのような父の期待からはずれ「いらない人間」になったことが暗示されます。
一方でレイはゲンドウの期待にそって必要とされています。シンジとは違って、マゾヒスティックな支配関係ですが・・・。ここにシンジとの競争関係が生じています。
エヴァに乗ると言うことは、父に認められるための試みといっていいでしょう。
エヴァはその名の通り女性=母親の象徴でしょう。しかしその凶暴なパワーが示すとおり、破壊的で呑み込む恐ろしい母親のイメージです。シンジがエヴァに乗ると言うことは父を裏切り母とセックスをすることを表すでしょう。エントリープラグというペニスをエヴァに挿入するわけです。
父親が今度は自分の前で男としてペニスを屹立させて母と交わることをシンジに求めるわけです。まあこれは困難な課題と言っていいでしょう。シンジはエヴァをうまく乗りこなすことができず、使徒にやられかけますが、エヴァの無意識的なパワーを解放することになり使徒に勝利します。
エヴァに乗れるのはシンジにとっては母と重なる綾波レイは別にして、男性的競争にとらわれたファリックなアスカと、洞木ヒカリにしたわれているけれどもそれに気づかない性的には未熟なトウジ、(従って母に呑み込まれて去勢されてしまう訳ですが)女っ気のないケンスケはエヴァには乗れない(女性と交われない)ということ。
シンジがエヴァから逃げるのは、去勢不安、成功不安と言うことになります。第3新東京市に来る前は「何もしなかった」のはこのためでしょう。演奏するチェロもアスカからみればうまくても、シンジにとっては中途半端にしか思えません。(チェロという楽器もどこか女性的ですね)
また、ミサトがシンジを元気づけるために空に向かって屹立するビルの群を見せるシーンも思い出されます。
エヴァに乗って敵を倒してしまうことが恐ろしいことになるのです。
実際シンクロ率でアスカを抜いた時に、恐ろしいことが起きました。シンジはディラックの海に飲まれ死にかけるのです。胎児状態に退行したシンジにとっては、母胎となる母が死に、胎児となった自分も死ぬ体験として感じられたのではないでしょうか。成功して得意になると罰が下ってしまうのです。
ライバルを殺してしまう不安
シンジとトウジがレイの家を訪ねた時も、トウジはシンジの余裕と成長を認め、レイはシンジの気遣いに顔を赤らめ、その直後シンジは使徒に支配されたエヴァを傷つけるのを恐れて戦闘を放棄してしまいます。競争に勝って相手を負かしてしまうくらいなら、競争に参加しない方がましというわけです。しかし、戦闘を放棄するとエヴァはゲンドウの命令によって、エヴァの衝動的なパワーが解放され、(これはシンジの中の衝動でもあるのですが)トウジを傷つけてしまいます。ただ、この時シンジはゲンドウに対して怒りをぶつけ、もう「エヴァには乗らない」競争から降りると、強く主張します。これは逆説的にシンジが自らの力で自己主張をするきっかけにもなったようです。
ところがこの自己主張は更にアスカとレイを危機にさらすことになります。自爆するレイを前にして再度、ゲンドウに対して「エヴァンゲリオン初号機のパイロットだからです」と自分の意志を伝えてエヴァに乗ります。この体験は母ユイが死んだ時、何もできないでいたことを躁的に防衛することになり、事実レイは死にません。この時シンジはエヴァとのシンクロ率400%となり、ユイのようにエヴァに同化してしまいます。
シンジのファンタジー
エヴァ初号機が使徒を喰い、自分にない属性をとりいれるという恐ろしい口愛性を発揮する一方で、母であるエヴァに同化されたシンジの夢の中では、ミサト、アスカ、レイがシンジに「ひとつになること」を求めます。
母親に呑み込まれるということは快感でもあり、同時に恐ろしい体験です。コフートなら無境界融合 merger というところでしょう。シンジは固体化することと、母と同化することの間で引き裂かれそうになりますが、最後は現実のミサトの涙によって母に抱えられる体験、自分が生まれる以前の体験を想起します。これは逆説的に呑み込む母親を対象化させ、母との距離をとり、シンジを固体化させることになります。
外傷体験
かつてシンジは目の前で母である碇ユイがエヴァに呑み込まれる(優しい母が恐ろしい母に呑み込まれてしまう)という経験をしました。ユイがゲンドウのために自ら危険な実験に望んだと言うことは、ユイの愛を巡る葛藤で、シンジがゲンドウに勝てなかったことをも意味します。シンジがこのような対象喪失に対してどのような防衛をとったかは、物語の中では語られません。
おそらく傷ついたレイを見ることは、過去の外傷体験の再現となったことでしょう。
冬月の回想からシンジの過去の外傷体験が判明します。シンジは4、5才の頃に、目の前で母親碇ユイがエヴァに同化されてしまうという喪失を経験していました。この後、彼は父ゲンドウに「捨てられ」自分のことを「いらない人間」と感じるようになります。「見捨てられる」恐怖は何度も繰り返されるので、これをマスターソンの「見捨てられ抑鬱」と結びつけ、シンジに対するボーダーライン心性(ニ者関係の病理)を指摘する人もいるのではないでしょうか。僕はちょっと意見が違って、やっぱりシンジの問題は基本的にエディパルなものだと考えます。(退行した場面ではニ者の問題も生じているとは思いますが)。
同胞殺し 父との同一化
女性とチャムにばかり囲まれているシンジにとって渚カヲルは最初のピアであり、去勢の脅かしもなく素直に同一化できるプレエディパル・ファーザーの役割をしています。
カヲルを殺すと言うことは、去勢を脅かす父親の機能を取り入れ、父に同一化すると言うことです。殺すくらいなら殺される方がまし、といっていたシンジが25話で、使徒を敵として強調するのは、罪悪感を打ち消そうとするものです。(トウジの時は、ゲンドウのコントロールのもとにトウジを傷つけるわけですが、この時シンジは自らの意志でカヲルを殺すのです)
シンジにおける人類補完計画
人類補完計画の中で、内的対象との対話が始まります。このファンタジーの中ではアスカもミサトもシンジも、自分の価値を認められません。内的対象は超自我として、否定的な見方しかできないシンジを責め立てます。
使徒をすべて倒してしまうということは、シンジにとっては他者から評価されるファルスを失う体験になります。そこで「エヴァを降りた自分とは何か」という問題が問われることになります。
シンジの洞察のきっかけは最終話のもう一つの現実、ファンタジーがきっかけです。
その中で、シンジはエヴァに乗っているときよりもずっと普通の少年らしく見えます。その最も大きな原因は何でしょうか。同性の男性との距離が近いことです。カヲルに接近されたときのぎこちなさが全くありません。これは同性の男性との競争、たわむれることがもはやシンジを脅かさないからではないでしょうか。最初のシーンが「朝立ち」であることも象徴的です。
物語の前半にあった、シンジとレイの衝突というモチーフが繰り返されますが、シンジの役割はもっとアクティブです。前半ではゲンドウのメガネをかけるシンジから、メガネを取り戻そうとして衝突が生じるという、ゲンドウ−レイの関係にシンジが割り込む存在であるのに対して、ファンタジーの中では、レイーシンジの衝突にアスカが嫉妬するという別の三角形ができています。
惣流・アスカ・ラングレー 躁的防衛が崩れるとき
母との競争 父の娘
登場の時点からアスカは非常に競争的かつ自己顕示的、フロイト−アブラハムの性発達段階でいえばファリック(男根期的)です。しかも、言葉の上では軽蔑しているシンジと同じ屋根の下に住んだり、キスをせまるなど誘惑的です。
彼女の回想の中の「私をみて」というフレーズはヒステリーを連想させます。
アスカの母親は精神的なブレーク・ダウンをおこし、アスカの代わりに人形をかわいがり、ついには自殺してしまいます。アスカの母親が「父さんは私のことを好きじゃなかった。あなたのことも最初からいらなかったのよ」と言った時に、アスカは心の中で「そうじゃない。お父さんは私のことは好きだったのよ!」と叫んだことでしょう。アスカは父の娘であり続けなければならなかったのです。アスカが過度に負けることに敏感なのは、むろん母親との競争に遡れることと思います。彼女のファンタジーの中に母親がいなければ自分が父の愛を独占できるという考えがあったでしょう。(現実にはそうなりませんが)母親の死は、彼女に深刻な罪悪感を植え付けることになります。
彼女の中で父親イメージは汚されないまま加持に投影され、母親イメージは否認されます。加持との関係は理想的な父との関係の転移であって、性愛的なニュアンスがありません。アスカが加持とミサトの性的な親密さを感じても、腹を立てるのはミサトに対してであり、加持に対しては親密さをひっこめるだけで怒りを向けることはありません。酔っぱらったミサトを送ってきた加持に移り香がしたとしても、そう不自然ではないのですが、男性の裏切りに対してアスカは敏感です。むろん父親が母を見捨て再婚したことが背景にあると考えられます。
負ける体験をめぐって
アスカがシンジとの競争に敗れた時、ファリックでいられなくなった彼女はエヴァに乗れなくなります。またこれは加持を巡る戦いでミサトに破れたことにも重なっています。男性のように勇ましくしようとしても所詮はかなわず、子どもとして父の関心をひこうとしても、女性である母親にはかなわない、そんな状況を乗り越えるにはアスカの拒否している女性性に向き合わなければならないことを意味します。しかしアスカにはそれができません。生理になれば、「子どもなんか絶対いらないのに」と悔しがります。それにおいうちをかけるように「機械人形」のレイから忠告されるのです。(レイを機械人形というのは、いわばゲンドウの人形であるレイに対する嫉妬、ネガティブな父親イメージであるゲンドウと距離をとること、母の人形になりたくないという自分の気持ちの投影、いろいろな要素が混じり合っていると思われます)
また加持とミサトの関係に気づきつつ、その怒りは加持には向けられないことも、自分を見捨てた父親への怒りが抑圧されていることと関係しているようです。アスカのファンタジーの中でも実母、義母からの見捨てられがテーマとなっていますが、その奥には父親への怒りがあるはずです。自分を評価する対象である、ゲンドウとのあいだに情緒的なやりとりがみられないのは、不自然な感じがします。
アスカが本当の女性として目覚めるためには、これは必要な敗北といえます。母の死を実感する抑鬱ポジションに入ったと言ってもいいでしょう
エヴァに乗れなくなった彼女が洞木ヒカリの前で泣くことは、彼女の退行を示しています。競争相手にならないヒカリの前では彼女はとても素直です。(レイや葛城ミサトの前の彼女とは大きな違いです)そしてプライドというファルスをへし折られて、エヴァと性行できなくなった彼女は胎児にまで退行して、壊れた浴槽の中に裸でつかるのです。
そういうアスカを見るのは忍びないですが、あの抑鬱状態で象徴的な母親役割をとり彼女の再成長を促してくれるような治療者との出会いがあったらいいなと思います。そして母への敗北を受け入れられる時が、女性としての自分を受け入れられる時になるでしょう。
最終回のシンジの内的世界の中でアスカが「世話焼き屋の幼なじみ」という形で描かれていたのが印象的です。フロイトのヒステリーの症例であるアンナ・Oが、後に社会福祉の道で有名になったように、去勢されまいと競っていたエネルギーが他者へのいたわりに向けられるとき、健康な自己主張がなされるように思います。
綾波レイ 自己犠牲の奥にあるもの
シンジとアスカがエディプス葛藤という点から明らかにできるのに対して、綾波レイ、渚カヲルのこころについて記述するのは難しく、治療者としてシンクロさせるのも難しいようです。おそらくレイとカヲルはアダムより生まれしもの、使徒に近いもの、衝動、おそらくは死の衝動に近いものとして描かれているからでしょう。
レイは自らを「代わりがいる存在」として捉えていて、物語の中で2度死んでいます。そしてクローンに魂が吹き込まれて再生することになっています。
綾波レイは碇ゲンドウへの献身のために傷ついた姿でシンジの前に現れます。レイの頭にあることは指名をはたすことで、そこにはシンジにあるような恐怖もなければ、アスカにあるような競争心もありません。感情は抑制されて、なかなか表面には現れてきません。
しかし一方で、父に認められたいシンジにとってレイは父の関心を奪う競争者としての側面ももっています。いわば、ゲンドウに対しても、レイに対しても嫉妬してるとも言えます。
物語初期の彼女は、シンジに裸を見られても無反応、自分の部屋は空っぽで、まるでアレキシサイミア(失感情症)みたいです。
母性的なユイと対極にあるようなレイですが、自己犠牲の精神は共通するものがあり、シンジもそのことに気づいていきます。またゲンドウやシンジの感情にふれることで、レイの中にも感情が芽生えてくるようです。シンジの「なぜエヴァに乗るの?」という質問に答えて「絆だから」と答えるレイにはちょっとほっとします。対象関係がレイの内界を少しずつ豊かにしてると思われるからです。(カーンバーグのモデル、内的対象表象、内的自己表象、そのふたつを結ぶ感情というユニットの蓄積がこころの構造をつくっていくというモデルを連想します)
レイは使徒から精神攻撃され(衝動的な呑み込む母親と一体化して)、シンジを呑み込もうとしますが、それがシンジにとって破壊的だと言うことを知っているので、衝動を抑える唯一の手段として自殺します。この時に彼女がさびしさを感じ、初めて涙を流すのが印象的です。かつて碇ユイがエヴァに吸収され、衝動を表すエヴァと感情を失ったレイとふたつに分裂したことを考えると、やはり衝動の象徴でもある使徒との接触で失われていた感情がよみがえるとも考えられます。
最終話のシンジのファンタジーの中で、レイが感情優位、抑制しないというキャラクターとして描かれているのは象徴的です。
他人のこころをうつす鏡
幼少期のレイは残酷です。リツコの母親である赤城ナオコにゲンドウに利用されていることをほのめかして精神的に追いつめ、彼女に首を絞められ死ぬのですが、彼女を自殺に追い込みます。このレイ1は、後のレイと違って悪意が感じられます。この違いはどこから来るのでしょうか。
レイは人のこころをうつす鏡、対象によって自らを規定していることが考えられます。
赤城博士はゲンドウを愛していたので、ユイの存在がじゃまでした。ユイが事故で死んだため、ゲンドウと愛人関係になるのですが、自分の空想が現実になってしまったことに対して罪悪感を感じています。そしてユイに似たレイを前にして不安をかき立てられます。レイの悪意は、ナオコの心にあったユイへの敵意が鏡のように跳ね返った結果だったのでしょう。
ゼーレから送り込まれた最後の使徒。レイと同様にアダムより生まれしものです。
ゼーレはエヴァがカヲルを倒すことを求めているのですから、カヲルは死ぬためにセントラル・ドグマのアダムに向かうとも言えます。これはレイ以上の自己犠牲というか、死の衝動に支配されているといってもいいかもしれません。カヲルは、シンジに殺されることを求めています。この死の衝動の支配から逃れるには、殺されることしか方策がないかのようです。
death / rebirth |
私は基本的にTV版と映画版は別のお話だと思います。TV版で終わっていたものを、召還しちゃったからゾンビーみたいな映画版ができちゃったなー、という印象で、TV版の終わり方をよしとしたい。
TV版の最終回は確かに物語全体を語るには破綻していますが、破綻していない物語なんて全然みりょく的でなーい。(加えるなら、私はディックの破綻した世界に共鳴してしまうのです)
心理学的にいえば自我同一性「私とは何か」というテーマをTV版も映画版も扱っているのですが、TV版がエリクソンのいう青年期心性に基づいた健康的な自我同一性の問題でとどまっているのに対して、映画版はより退行し、精神病心性に近いジェイコブソンのいうような幼少期の自我同一性の拡散がテーマになっています。
癒しに関わる職業についているものとしては、神経症でまとまるはずだった登場人物に、精神病レベルまでの退行が生じてしまい、登場人物の癒しはどこへいったんだという気持ちになってしまいました。
制作者にTVという時間と内容的な制約がなくなって、シンジも大人の側に引っ張り寄せられ、より破壊的な内容になったという印象。
カヲルを殺してしまった罪悪感をぬぐいきれず、シンジはアスカに頼ろうとするが、アスカは意識がない。シンジにとっては死んだ母が機能しない体験の再燃となる。性的な衝動による興奮に身を任せて、罪悪感を一時的にやわらげるが、興奮させられる自分に気づくことはシンジに強烈な自己嫌悪とひきこもりをもたらす。
アスカが死の恐怖から、実際はアンビバレントであった母親を万能視し、躁的に再生させて同一化、自らも万能感に支配されて自衛隊員を殺しまくる。
Air / まごころを君に |
テーマは母なるものに翻弄されるシンジ。シンジの癒やしのプロセスは安全感を持ちつつファリックになれる感覚だったはずなのに、彼は全編を通じて受け身。殺されそうになってもなすがまま。相手を傷つけるくらいなら殺された方がまし、というやり方で退行していく。能動的になるのはファンタジーの中で砂山を壊す時と、アスカの首を絞めるときだけ。
感情を全面に出し、性的に成熟した女性として誘惑し、ファリックであれと直面化するミサト。だけど、この後シンジのファンタジーのシーンで原光景のテーマが出てくると言うことは、この誘惑はうまくいっていない。シンジを呑み込み一体化しようとするユイ=レイ、性的に刺激しつつ、それに興奮することをさげすむアスカ。
フェアバーンでいえば「刺激する対象」=ミサト、アスカ、「拒絶する対象」=レイということになるだろうか。
精神病的退行と不安の世界。融合、境界を犯される不安。母親に呑み込まれる不安が頂点に達したところで、ミサトと加持に置き換えられた原光景の回想、衝動に任せ犯す父親と快楽に支配される母のイメージに対する嫌悪感が想起される。刺激する対象のアスカに復讐される。母の死に対する防衛として、砂遊びに熱中し、そしてそれを破壊し、不在の母への怒りを思い出す。シンジは母との病的な融合は抜け出して、母親の死をワークスルーできそうに見えた。
ラスト・シーン。すべてが破壊された後、残されたシンジとアスカはタイトルどおり新しい創世記(NEON GENESIS)のアダムとイヴとなるとかと見えるが、シンジは母、女性への破壊的な衝動をコントロールできない。ユイ=レイが消えていく中で、やり場のない怒りは死んだ母=意識のないアスカ(目を怪我しているのはシンジの心の中では、やはりレイと同一化しているっていう意味?)に向けられる。原光景の中の父親に同一化し、性欲は破壊衝動としてアスカに向かう。サディスティックな興奮は、セックスの代わり。手を緩めたのは射精しちゃったってこと?。そしてそれを再びさげすむアスカ。
これはTV版のシンジとアスカのキスのリメークだと思う。TV版では誘惑的なアスカに対して受動的なシンジが翻弄されたのに対して、映画では衝動に駆られたシンジがアクティブな役割をとる。
でもアスカが女としてシンジに抱かれるためには、まだ早いんだ。母親の死の本当のモーニング・ワークを彼女はまだ経ていない。母と同一化して万能感を味わっていたのに、またまたその万能感を突き崩されて虚無感が彼女を支配してる。シンジも愛が破壊的でない、まごころをきみに伝えることができると知るには、まだワークスルーがたりない。
庵野監督にとっては、こちらの話がオリジナルなんだろうって思う。監督はエヴァンゲリオンのお話としての完結が求められた時に、「ホントにいいんだな」って気持ちあったんじゃないか。きっと砂山を壊すようなものだったんだろう。だけど、彼にとってはきっとこれが癒しの意味があったのかもしれない。