箱庭を考察している場合じゃないと思う 「箱庭療法の心層 内的交流に迫る/中道泰子」

 「心層」っていう奇妙な造語に関してはどこかに説明があるかと思って読んだけど結局見つかりませんでした。もしかしたら見落としているかもしれませんが。


 まあイニシャルケースでもあるし仕方がないとは思うのだけど、母親によって親戚宅に放置され施設に入所した子どものプレイセラピー。担当者が一年ずつ交代して筆者が3代目のケース。長期休みと施設の改修工事のため6週間の休みがはいって再開したとき筆者は施設の担当職員から子どもがプレイをやめるといっていることを告げられる。それで筆者はその回でセラピーを終える。これって箱庭療法の表現が神話的にどうかとか考察する前にもっとしなきゃならないことがないですか。この子にとって人と別れることがどういう意味かっていうことを考えた方がいいんじゃないですか。


 それからセラピストとの関係性が箱庭にどのように現れるかを見るためにというので、著者がグループスーパービジョンをしているスーパーヴァイジーを被験者にして箱庭を置かせるとか、筆者が箱庭を制作して、3年ほどのキャリアのある若い臨床心理士と、筆者が10年以上教育分析を受けているベテラン臨床心理士がセラピスト役をするとどのような違いがあるか比較するとか、ちょっと構造的にあんまりじゃないかなと思いました。だいたいのスーパーヴァイジーは、セラピストが見守ってくれていると肯定的なコメントしてたんだけど、ひとりプライベートな想いを語りながら砂をただ押さえていた人がいて、その気持ちはわかると柄にもなく思いました。


 読んでいるときに感じた何ともいえない違和感は、引用されている河合隼雄の文章を読んだらなんだか「腑に落ちました」


 「『この人なら本当に十階から飛び降りても大丈夫だ』というものがないかぎり、箱庭は始まらない。」(p.161)
 
 んー、個人的にはそんな変な過大評価されたくないな・・・。
箱庭療法の心層
箱庭療法の心層中道 泰子

創元社 2010-04-21
売り上げランキング : 250198

Amazonで詳しく見る
by G-Tools